自己紹介ー京都とのご縁ー

京都のことをご紹介する洛らいふを運営するコージと申します。大阪生まれ、京都で学生時代を過ごし、今は愛知県で中堅エンジニアとして働く30代のサラリーマンです。京都出身の妻とともにいずれは京都に帰りたいという野望を胸に秘めつつ毎日を過ごしております。そんな私の自己紹介がてら京都とのご縁について紹介させてください。

目次

1.初の京都遠征は未遂に終わる

2.予備校講師のひとことがきっかけ

3.初の京都訪問で決意固まる

4.部活と受験で疲弊、一回落ちる

5.浪人時代

6.大学とその後

1.初の京都遠征は未遂に終わる

大阪府の中東部、京都までのアクセスが微妙にわるいところで生まれ育った私は、中学生のころまでは京都という土地に全くご縁がなかった。テレビの観光特集や火曜サスペンスドラマで何となく観たことがあるくらいでまるで接点がなかった。初めて京都へ行こうとしとしたのが中学1年生の夏休み、仲間とともに「どこでもいいから遠くに行って、夏休みらしいことをしてみいひんか」「じゃあ、(なんとなく)京都まで行こうや!」という会話がきっかけだった。電車賃をケチって仲間たち3人と片道50kmの道のりをママチャリにまたがって漕ぎ出した。8月の炎天下、あまりの暑さでしょっちゅうコンビニに駆け込んではペットボトル飲料やアイスを消費している間に時間まで消費してしまった。京都市内まであと10kmほどというところ、京都府久御山町まで来たところで残念ながら時間の都合で引き返すことになってしまい、初の京都(市内)遠征は未遂に終わってしまった。「ペットボトルやアイスを大量に買う金あるんやったら、電車で行けたやん!」とみんな心の中でツッコンでいたと思うが、それを言葉に出すと帰りの道のりがつらくなるのでやめておいた。

2.予備校講師のひとことがきっかけ

高校1年生になってなんとなく天王寺の予備校に通うことになった。高校3年生の姉が何となく受験のために通いだしたので、私も何となく一緒に通うことにしただけである。予備校に通いだして数か月経った頃、担当の講師から唐突に「お前、京大行けんで!」と言われた。これが「京都」という場所を強く意識するようになったきっかけだった。その当時大学に関して何の知識もなかった。京大は何となくノーベル賞やらなんやらで聞いたことくらいはあったが自分には無縁の場所だろうと思っていた。なんせ家庭はそこまで教育熱心な感じでもないし、地元の友人は大学に進学しない人が多いような環境だったし、今ほどインターネットが発達もしていなかったので大学全般に対して知識が圧倒的に不足していた。そんな無知な私でも聞いたことのある「京大」という大学に入れるらしいと言われたこの事件は、田舎者で無知な十代の少年の自尊心を満たすには十分すぎたし、大きな目標となりえた。

3.初の京都訪問で決意固まる

京都を初めて訪れたのは高校2年生の春だったか。事前に観光本で調べまくり、当時お付き合いしていた彼女とお花見がてら東山界隈の王道コースを観光した(この時はさすがにママチャリではなかった)。桜の花単独の美しさもさることながら、古都の街並みが東山や鴨川といった自然を借景に美しく調和しており、そこに桜の花をあしらったまるで絵画のような光景が広がっていた。当時、京大受験は何となく意識していたが、この美しい京都の地に通うために、京大に行きたいという欲求が決意に変わっていった(今思えば受験の動機として「何を学ぶか」という視点があまりなかったのは若気の至りだったのかもしれない。)

4.部活と受験で疲弊、一回落ちる

決意を固めた高校2年生から受験勉強なるものに徐々に本腰を入れ始めた。京大に受かるためのノウハウを持っている人が(声を掛けてくれた予備校講師を除いては)親兄弟、親戚、友人、学校の先生も含めて周りに全くおらず、受験の方法論がわからないために大変苦労した。持ち前の気合と根性で手あたり次第勉強しまくったので、かなりムダが多かったと思う。一方体育会系の部活でもリーダー的な存在になったので、部活と勉強でなんだか常に疲れていた。高校3年生の夏に部活を引退してからは勉強一辺倒の生活に切り替えた。このころ模試では得意分野が出ればC判定やB判定をとることもあったが、一方でE判定が出ることもあり成績が安定しなかった。やはり自分の能力では京大に行けないのかとかなり不安な毎日を過ごした。その不安をかき消すために、がむしゃらに勉強をした。年があけてセンター試験をクリアし、まだ不安を抱えたまま二次試験本番の日を迎えた。実はこの時に初めて京大の吉田キャンパスを訪れた。京大のシンボルである時計台やクスノキ、その周囲に立つ歴代の総長像の威圧感がハンパなく圧倒的な存在感を示していた。それらが合格をはばむ大きな壁のようにも感じた。

試験会場(当時の工学部8号館だったか??)では周りがとてつもなく賢い感じの雰囲気を出しており、自分とは違う世界の人間のように思えた。実際に関西の名門、灘や東大寺など名だたる進学校から多くの学生が受けに来ているのだからそれも仕方ないのかもしれないが、受ける前から心理的に負けてしまっていた。試験のときのことは正直あまり覚えていないし、出来たという手ごたえもあまり感じられなかった。当然のことながらその後、突き付けられたのは「不合格」の3文字。相当のショックを受けたが、もう一年だけ頑張ってダメだったらあきらめようと、1年間浪人することに決めた。その後5月ごろ(?)に二次試験の得点が開示されて、合格まであと1点足りないという余計な事実を知ってしまった。たとえば国語でいうなら漢字1問あうか間違うかの差。人生はこんなちょっとしたミスで左右されるのか。人生で初めて現実の厳しさを思い知らされた。

5.浪人時代

その後1年間、大阪は難波の予備校に通い詰めた。朝は8時ごろから夜は22時ごろまで、ほぼ休みなく勉強するマシーンと化した。そこに一切の感情はいらなかった。追い打ちをかけるように高校3年間お付き合いした彼女とも別れた。予備校近くのミナミのネオン街はキラキラしていたが、浪人生の日々は文字通り暗黒だった。昼休憩中に道頓堀川のほとり(なんばハッチのあたり)に座り、暗黒の浪人生活を主題にした短歌を一人詠んで遊んだり、気晴らしに無心で散歩いていたら気づかぬうちに梅田に来てしまったり、ようは相当病んでいた。この時、模試では常に成績上位者に名を連ね、A or B判定で安定してきたのが唯一の心の支えとなった。

二度目の二次試験は模試の成績が安定していたこともあり、ある程度自信をもって臨むことができた。現役のときと比べると本番の試験でも確かな手ごたえを感じることができた。合格発表でも自信をもって掲示板を眺めることができた。そこには確かに私の受験番号が記されていた。感動で泣くかな、とも考えていたが、実際は気が抜けて完全に脱力してしまった。「これ以上の努力もうできひん。これで落ちたら知らん。」という中でやり切った感に包まれていた。立つのもやっとというくらい。あまりその場でヘナヘナしていると、アメフト部員に胴上げされかねない感じだったので、そそくさとその場をあとにし、百万遍で飯を食べてすぐに大阪へ帰った。

6.大学とその後

そこから大学3回生までは銀閣や哲学の道にほど近い吉田キャンパス、その後修士2年生までは桂キャンパスに通い嵐山渡月橋までのジョギングが日課となる。高校2年生の時にあこがれた京都の地を身近に感じられる生活を手にすることが出来た。

それ以来、四季折々の豊かな表情を魅せる京都の街並みといい、徒歩やチャリで観光、買い物や、文化芸術に触れられるコンパクトな街の利便性といい、すっかりこの地に魅了されてしまいました。就職で京都を去った後も、(いつになるかはさっぱり分かりませんが)京都出身の妻といずれは京都に戻ってきたいという思いを持っています。いまは愛知県在住で京都まで車で2時間、新幹線で1時間ほどなので、ちょくちょく京都に帰っては情報をアップデートしています。この情報が私と妻の備忘録としてはたまた皆様のお役に立てばと、妻と二人で洛らいふの記事を更新していきます。